昨日「大嘗宮(だいじょうきゅう)」についてブログを書いた。
それに大急ぎで付け加えておく。元々は新嘗祭(にいなめさい)
でも“新しく”斎場を設けていた。
この事実を見落としてはならない。『古事記』を見ると、雄略天皇の段に収める歌謡に
「尓比那閉夜(ニヒナヘヤ=新嘗屋)」という語が出てくる。
これは毎年の新嘗祭の為に、簡素な仮設の建物が造られた
事実を示している。
『日本書紀』神代巻「宝鏡開始」章の正文にも、
「新嘗きこしめさむとする時」に「新宮(卜部兼夏〔うらべのかねなつ〕
本に“ニハナヒノミヤ〔=新嘗の宮〕”との訓あり)」を設ける
慣行があった事実を反映している場面が描かれている。
更に文献だけでなく、考古学上の知見としても、
大和朝廷の初期の宮があったと見られている纒向(まきむく)
遺跡には、収穫に伴う祭祀(新嘗祭の原型)を行った跡があり、
その際、「建物(仮建築)」を設けたらしい(石野博信氏)。これらから、新嘗祭でも本来は祭りの度に新しい斎場を
設けていたと推定できる。
それが何時から常設の建物で行うようになったかは、
それ自体、1つの研究テーマだろう。
しかし、新嘗祭が神嘉殿(しんかでん)で行われるようになった
平安時代の史料からも、新嘗祭に先立って、神に供える御飯を炊く
「炊殿(かしぎどの)」を“新たに”造っていた事実を知る事ができる
(『延喜式』)。やむなく常設の建物で新嘗祭が行われるようになっても、
神に対して少しでも「清らかに」おもてなしをしたい、
という精神は失われていなかった。【高森明勅公式サイト】
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